米国コロラド州ボールダーの自宅でのインタビュー。 適時このサイトに連載します。
第2回 苦学の時代

集部:   エール大学医学部を卒業し、医者を目指して今度はニューメキシコ州立大学の医学コースへ再度貴方は入学ました。 その直後、貴方の実家の家計が苦しくなり医者になるのを断念する事態になったのですね。

ショーター:  そうです。 ニューメキシコ州立大学へ入学後2ヶ月後の1969年末のことでした。 その頃に私は初めて日本に行きました。 それは太平洋沿岸5カ国陸上競技大会のためでした。 そこで、私は自分よりも遥かに弱いと思われた選手達に無残にも敗れました。 その時に私はハッキリと 「ランニングに集中して強くなってやるぞ!」 と奮起しました。 その気持ちが、実家の経済状態のこともあり、医学コースを断念することになった理由です。 でも、ランニングに対してまだ本当に自信は無かったのです。  「1年間ランニングに集中して自分の力を試して能力の限界を見極めてみよう。」  そのような気持ちでしたが、でも医学コースに長年通い、実際7−8年もかかって医者になる意欲も薄れつつあったのです。 そうして私はランニングが好きになっていきました。

集部:  全米選手権での初めての優勝がその頃ですね。

ショーター:  はい。 3マイルと6マイルのレースに勝ちました。 その後、結婚してフロリダ大学の法律コースに進学しました。 そこでは、勉学とランニングの両立が可能と思えました。

集部:   貴方が初めて 「福岡国際マラソン」 に招待され来日した時、飛行機のタラップから降りてくる貴方の両脇に分厚い六法全書や法律の専門書がかかえられていたことは当時のマスコミでも話題になりました。
 「米国のインテリランナー」などの表現でした。

ショーター: 米国の学生は在学中は試験で大変なのです。

集部:   「福岡国際マラソン」 では初出場の1971年から4年連続の優勝を貴方は成し遂げたわけですが、この記録は未だに破られていません。 日本の瀬古選手は3年連続でした。

ショーター:  当時も日本のマラソン陣は大変強くて、宇佐美、君原、采谷、佐々木選手といった人達が全盛でした。 その少し後から、瀬古、宗兄弟、中山選手といった世界的なトップランナーが続きました。
日本長距離陣は最近では女子の層が大変厚いと思いますが、男子も先日の「シカゴ・マラソン」で高岡選手が2時間6分台を出すなど伝統を感じます。

第3回へ続く ・・・・・・・

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