米国コロラド州ボールダーの自宅でのインタビュー。 適時このサイトに連載します。
第8回 灼熱下のパンアメリカン大会
集部:   ミュンヘン五輪でアメリカに60数年ぶりに金メダルを持ち帰ったあなたですが、日本とも大変関わりが深いですね。

ショーター:  そうです。 私は日本とは本当に長く、深い関わりがあります。 初めて日本に行ったのは1969年に行われた太平洋沿岸5カ国陸上でした。 成績は散々でいい思い出はまったくありませんでした。
その後、全米学生選手権6マイルや全米クロスカントリー選手権で勝ちだし、やや長距離選手としての自信が生まれてきました。

編集部: では、エール大学卒業前後くらいからですね。

ショーター: 学生時代の私は特に強い選手ではありませんでしたが、1970年ぐらいから米国内での長距離レースではいい成績を収めることが出来るようになってきました。 
1971年6月初マラソンで、友人のケニー・ムーア(米国)に続き2位になり、米国代表として同年8月南米コロンビアのカリ市で行われたパン・アメリカン大会(南北アメリカ大陸競技会)の1万メートルに続き、マラソンでも初めて優勝しました。 実はこの大会では1万メートルのほうに自信がありました。 1万メートルは相当経験を積んできて、6マイルを27分27秒で走れるくらいの力がありましたので。 しかし、マラソンは2ヶ月前に初めて走っただけです。
しかも、コロンビアのカリ市は標高1500メートルの高地にあり、また赤道直下の夏で非常に暑い土地ですからね。
まったくマラソンは自信がありませんでした。 私の初マラソンで私に勝っているケニー・ムーアや、ボストンマラソン上位入賞のアルベロ・メヒア(コロンビア)選手などがエントリーしていました。 

レースはゆっくりとしたペースで始まりました。 26キロ付近までこの二人ともう一人南米の選手そして私と4人がトップグループを形成して走っていました。 このころから徐々に私の身体に深刻なトラブルが発生しつつあることに気がつきました。 

編集部: トラブル?

ショーター: ええ、私はどうしても我慢が出来なくなり、コースのそばにある深い排水溝に飛び込みました。 私が用を足している間に、さらにメキシコのランナーが追い抜いて行きました。 私と一緒に走っていたトップグループはもう既に400メートルほど先に行ってしまいました。 
気分がすっきりしたので、急いで態勢を立て直した私は直ぐにメキシコのランナーに追いつきそして抜きました。 その後、じっくりと静かにトップグループを追っていきました。 ケニー達に追いつくのに5キロ弱ほどかかりましたが、私はケニーに後ろから「ただいま!」と声をかけました。 彼やメヒア達は振り返って私をまじまじと見つめましたが、メヒアは「信じられない」といったような顔をしていました。
追いつくと 「さあ、行こうか」 と私はケニーに言い二人でスピードアップをしてメヒア達からリードを奪いました。

第9回へ続く ・・・・・・・

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