米国コロラド州ボールダーの自宅でのインタビュー。 適時このサイトに連載します。

New! 第11回 福岡国際マラソンでの出会い

編集部:  当時、オリンピックに次ぐマラソンの実質的な世界選手権の意味合いを持った 「福岡国際マラソン」 に招待された貴方は1971年12月初旬、寒風吹きすさぶ福岡の空港にいよいよ降り立ちました。

ショーター:  はい、初めての福岡でした。 当時の海外からの国際線の到着は羽田でした。 そこで福岡行きに乗り換えました。 私は同僚のケニー・ムーア選手とハワイで落ち合い、一緒に福岡入りする予定でしたが、当時住んでいたフロリダを出発する際に私の乗った飛行機がエンジントラブルで出発が遅れ、彼が一足先に福岡に到着していました。

編集部:  私達も当時の模様をよく覚えていますが、あなたは赤いスキーのヤッケに白とグレーの模様の入った暖かそうなセーターにブルージーンズというラフないでたちでしたね。 ハッキリと印象に残っているのは、右手にボロボロになった、おっと失礼、旅行用スーツケースと左手には分厚い本が数冊抱えられていました。

ショーター:  ハハハ・・・ エール大学時には医者を目指していましたが、私の兄弟姉妹は10人で実家の家計が苦しく、コース変更して心理学部を卒業しました。 父が米軍の軍医でしたので、医者になりたかったのですがなるためには費用と時間がかかりすぎて断念しました。 そこで、弁護士になろうと思い、フロリダ大学大学院の法学コースに進みました。 本当に貧乏な学生でしたが、福岡国際マラソンは招待のため費用は主催者の負担でした。 腕に抱えていたのは法律関係の書物でした。 福岡国際マラソンが終りフロリダに帰ると大学の試験が待っていたのです。 必死に勉強をしないと米国の大学の学期試験にパスするのは大変難しいのです。

編集部: さあ、福岡に着きましたがそこであなたはある人と出会うのですね。

ショーター:  そうです。 いまでも私のベストフレンドで、ビジネスパートナーでもあるH氏とめぐり合います。 彼自身と彼の家族とはもう34年以上の付き合いで私の最もよき理解者達です。



彼は当時日本のスポーツシューズメーカーの社員でした。学卒のフレッシュマンで、世界のマラソン選手に同社製のシューズを宣伝し多くの商品改良意見を求める仕事をしていました。 
彼は福岡国際マラソンに招待される外国選手には、事前にコンタクトをとって同社のシューズを履いてもらう約束を取り付けていました。 この1971年の大会は、翌年のミュンヘン五輪の行方をみる大切な前哨戦ともいえるものです。 招待選手のなかで、最強は日本の宇佐美彰朗選手(現・東海大学教授)です。 彼は前年の優勝者で、2位がケニー・ムーア選手でした。 ケニーは当時ハワイに居住していて、H氏とは懇意にしており定期的にシューズを受け取っていました。 ケニーに送ってくるシューズが私も大変気に入ってどうしてもH氏と会いたいと思っていました。

編集部: 学校を出た前後というと、H氏とあなたは同年代なのですね。 

ショーター:  ええ。 団塊の世代少し前です。 多くの世界の長距離トップランナー達は彼を知っていました。 私はケニーから聞いてはいましたが、一度も会ったことはありませんでした。 福岡到着の夜、ケニーは選手の宿舎のホテルで私を待っていました。 私は荷解きを済ませてシャワーを浴びていると、部屋の電話が鳴りました。 午後8時過ぎで、ケニーからの館内電話でした。 「フランク、シャワーは済んだかい? 時間があればちょっとロビーまで降りてこないか?」 私は数分後にロビーでケニーと会いました。 「一杯やるかい?」 「いいねーえ!」 私達はロビーに隣接したホテルのバーに行きました。 私は現在では酒は一切飲みませんが、若い頃はジントニックやビールはよく飲んでいましたね。 しばらくするとそこへ、ダークブレザーにネクタイをきちっと結んだ日本の若者がバーに入ってきました。 手には大きなバッグを抱えていました。 彼は大変緊張した様子でした。

 
次回をお楽しみに・・・・・・・

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